そのはじまりは昭和10年代の光永商店でした。
   30年頃から次第に店が増え、昭和32年には線路の北側と合わせ20軒で「発寒商工会」が発足。
   やがて名称を「発寒商工振興会」に変更して、会員120名を擁するまでに発展します。
   そして昭和46年には線路を境に南北2つの商店街に分かれ、昭和51年の地下鉄東西線開通の年に『発寒商店街振興組合』へと衣替えします。
   そのとき始めた「ほほえみシール」は「わくわくスタンプ」へ、昭和59年からは「発寒商店街ふれあい祭り」が始まり今は形を変えて、商店街の一部を歩行者天国にして「はっさむ夏祭り」として続いています。
   その後モータリゼーションの進行や大型店の動向など、社会環境の変化の波にもまれながらも、地域に根ざした生活支援の場として歩んできました。
   近年は商店街が運営する地域の交流拠点として、『カフェ・ハチャム』から現在、『絵本カフェハチャム』をオープンし、新たな地域の交流拠点として利用していただいています。
   現在商店街の会員数は約58軒。人と場所のエネルギーを生かしながら、地域の財産としての商店街の力を再発見してもらえるよう、これからも地域作りに向けて商店の人たちが、商いを通して培った職人としての力を、地域の人の生活を下支えする商店街として発揮・発信して行きます。



▲発寒6条7丁目付近

   この場所は大正の頃より川が流れていました。
   この橋(鮭美橋)から川を見ると鮭が美しく泳いでいた姿から鮭美川と名付けました (琴似屯田三世 三戸部 清一)。
   川には鮭の外、どじょう、フナ、ヤマベ、うぐい、ざりがに等がいました。
   又、農業用水、生活用水としても用いられました。
※鮭美川跡の由来パネルより
   発寒屯田四世・三戸部 清美さんに伺いました。 現在の発寒6条7丁目付近、鮭美橋のあった場所に当時、実際に橋梁として使用された石で昭和63年9月に建立された歴史を記したものです。
   幾世代にわたり発寒に暮らす人々の記憶に留まる小さな川も、周辺がすでにほぼ埋め立てられて住宅や車線となり、橋の名残の上を歩いていても気づかないこともあるようですが、この場所には唯一、川堀跡が残されているのです。
   名前の由来を振り返ってみると、発寒がどれほど豊かな水源をもつ場所であったかを伺い知ることができます。
※2010年.冬 ぶらりはっさむより一部抜粋。



COPYRIGHT(C)2021 はっさむ商店街 ALL RIGHTS RESERVED.
このホームページ内の文書・写真等の複写、複製、転載を禁じます。